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なぜ自殺をしてはいけないのか?自殺は罪なの?その②

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解脱や涅槃は精神的な苦しみの解放をもたらすのか?

今回は、なぜ自殺をしてはいけないのか?自殺は罪なの?その① の続きです。

ショーペンハウアーは「精神的な苦しみは精神で解決すること、つまり「解脱、涅槃」の道へ行くこと」だとし、その道があるにも関わらず、精神で勝負せずに生命を絶つことはもったいないと言い、

でも、解脱や涅槃で本当に解決するのか?という問いが残るよね、というところで、その①は終わりました。

少し前に、amazon primeで、有名な小説『ライ麦畑でつかまえて』の作者、J・D・サリンジャーの半生を描いたドラマ『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』を観たのですが、彼がまさにソレだなあと。

サリンジャーは戦争体験のトラウマに悩まされ、その精神的苦痛から逃れるために、瞑想に耽るようになります。
人里離れ、心を煩わすものを避ける。それがどんどんエスカレートして、家族や友人とも断絶するようになる。
小説は書き続けながらも、決して世に出すことはない。注目を浴びることを嫌い、ひとり孤独に生きていくのです。

そんな生き方を選択するサリンジャーの姿をみながら、あるギモンが湧くのではないでしょうか?

「心を煩わさずに一人で孤独に生きるだけなのなら、なぜ肉体をもってこの世に生まれたのか?」

何とも出会わないのであれば、何のための肉体なのでしょう。
肉体を持った人間は、出会いを楽しみ、関係性を育みながら、楽しみながら生きることができる。
それなのに、その機能を発揮していないじゃないか…。

そう、だから涅槃に入るだけではダメなんです。
宗教的な悟りが物足りないポイントは、現実を楽しめないこと。
本当はお祭りのように現実を楽しめるのに、解脱や涅槃では、その状態にならないんです。

自殺願望の根本にあるもの

そもそも、なぜ自殺を考え、人生を投げ出したくなるのでしょう?

それは、環境を変えることができない、思い通りに統制ができないからです。
本当は自殺したいわけじゃない。本当は生きたい!生きる意志はある。
なのに、環境を変えられないことに挫折、絶望して、自ら命を絶ってしまうのですね。

自殺じゃなくて、他殺も然りです。
「あいつの顔が、体系が、声が許せない。だから殺そう!」と、身体(生命)が憎くて殺す人は恐らくいません。

そうではなく、相手の考え方や観点を変えられない=相手の精神を殺せない、ゼロ化できない
だから「身体ごと殺す」しかないんです。

けど、これではいたちごっこ。だって自分と同じ観点を持つ人なんて一人もいないのだから。
だから、サリンジャーのように、ほかの誰の観点とも出会わなくていいように俗世を離れるか、相手や環境に合わせて耐えるか、何も感じないように心を麻痺させるか、自ら命を絶つか、相手を無理やり従わせるか、身体ごと殺してしまうか…等々を、永遠と繰り返すしかない。

悲しいかな、人間の歴史はこのいたちごっこをずーっとやってきたワケです。

「自分と同じ観点を持つ人は一人もいない」ということを、別の表現をすると、
「一分、一秒も自分が見ている画面を共有することができない」とも言えます。

蚕が自分の口から出した糸で繭玉をつくっているように、すべてが自分のリテラシー(解析・解釈)でしかない。
繭玉という解析の中に、一人ひとりが引きこもり状態なんです。

もっと言えば、目で見ていると思うけど「見ていない」し、耳で聞いていると思うけど「聞いてない」。
見ている、聞いていると思っていたのは、ただ自分の解析に過ぎず、自分の解析の繭の中で騒いでいるだけ…。Ω\ζ°)チーン

つまり…。感覚も言葉も全部、騙す・騙される道具。自分も騙され、相手も騙される。
それが人間のデフォルト状態。だから、存在不安になったり、存在孤独になるのは、当たり前です。
むしろ、そうじゃない人は、どこか虚勢を張っていたり、鈍感になって麻痺させたり…と直視していないだけです。

身体の人間で生まれた「デフォルト状態」で生きることは、本当に地獄。
そのままでは絶対に幸せになれないようにできている。

だからこそ、「そうなるように仕組まれている」ということを、まずはちゃーんと知る必要があります。
なんてひどい初期設定だ!と怒りたくなるかもしれません。ですが、これには、ものすごい愛のヒミツがあるのです♡

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