説明過多に感じる違和感
今回は、ここ数年感じてきた違和感とコミュニケーションとの関係性についてお話します。
その違和感が顕著に意識化されたのは「鬼滅の刃」のアニメ版の第一話を観たときでした。
このアニメをみたことがある人はわかると思いますが、場面や心の移り変わりを、丁寧に説明をしてくれます。
よく言えば「わかりやすい」、でも悪く言えば「視聴者を馬鹿にしている」ようにも受け取れます。
正直、わたしは軽くストレスでした(笑)
矢継ぎ早に説明が飛び交うので、自分自身で感じ取ったり、考えたり、理解したりする隙を与えてもらえない…。
なので「やめてー」と内心、叫びました。
ようは、余韻を楽しむ、想像力を働かせる、映像から状況を読み取る、行間を読むといった必要がないんです。
というより、そうさせてもらえないフラストレーション…。
そんなこんなで、第一話は途中で視聴を断念してしまいました。
ただ、鬼滅の刃の内容は興味深いものがあったので、あとから心をリセットしてぜんぶを観ました(笑)
このような「セリフでぜんぶを説明する」という傾向だけじゃなく、最近では「10秒飛ばしで映画やドラマを観る」、「手っ取り早くあらすじだけ調べて概要は押さえておく」、「結論だけ知りたい」という人が増えているとも聞いたことがあります。
このような傾向を皆さんはどう思いますか?
胸がざわつくのは私だけでしょうか?
これは一体どういうことなのだろう、いつからこんな風潮になったのでしょう。
情報過多で情報短命な時代の影響
「情報、砂の一粒時代」ともいわれるなかで、手っ取り早くたくさんの情報を無駄なく取り入れたいという心の現れなのかもしれない。もしくは、量子力学的世界観(不確定性原理だからコロコロ変わる)の時代だからこそ、情報が短命なこともあるかもしれないし、どんどん我慢がきかなくなることや、待てなくなることもあるのでしょう。だから、時代を生き抜く知恵なのかもしれない…。
うんうん。このように考えると理解することはできますね。
ただ、それが。
日常の人間関係、つまりコミュニケーションもこの傾向が強化されると、かなり厄介です。
例えば、A男さんがB子さんに「バカだなあ」と言ったとしましょう。
A男さんとしては、実はBさんのことが好きなあまり、照れ隠しで「バカ」と言ったのですが、B子さんは、文字通りに受け取り「バカと言われた。ひどい!Aさんなんて嫌いだ!」とショックを受けてしまうのに、顔は笑顔で心の内を表に出さない。そうするとA男さんはその笑顔をみて、Bさんが傷ついているとは夢にも思わない。…なんてことが起こるのです。
このような「誤解して・誤解されて」という些細なコミュニケーションの事故は、日常であるある事件です。
だけど、時代とともに加速しているように思います。
想像してみてください。
- 言葉を真に受ける
- 言葉にしないこと以外は察しない
- 結論だけを求める
そんな人だらけのコミュニケーションと人間関係。
言葉ですべてを説明しないとわからない、言葉の裏にあるものを感じ取れない。
これはコミュニケーション力の問題だけではなく、
自らの力で解析をしたり、読み解くという「リテラシー技術」が低いということでもあります。
想像力が欠如し、機械のような反応しかできない人たちが溢れる未来。
機械的なことはAI(人工知能)が人間よりも格段にお上手なので、そのポジションでは人間は役に立ちません。
考えるべきは、「なぜこのような状態がどんどん広がるのか」。
さらに掘り下げて、根っこには何があるのかを、まずは知ることから始めましょう。
イチオシ情報
- なぜ、機械のような反応をするようになるのだろう?
- 行間を読み解き、深いつながりをつくるにはどうしたらいいの?
- リテラシースキルを高めるには?
このようなギモンをスッキリ解消するカギは「究極の絶望」に出会うこと。
絶望といっても、体験や経験で「絶望してください」というものではないのでご安心を。
キチンと考えをひとつひとつ整理するとたどり着くものが「究極の絶望」です。
究極の絶望への早道は「絶望シミュレーションワークショップ」へようこそ。
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